2011年8月25日木曜日

被災地障がい児者支援ボランティア活動の報告(18)


宮城・障害児者支援ボランティア、731~8/2活動報

フクダヒロシ(海老名市社会福祉協議会個人ボランティア、海老名災害ボランティアネットワーク会員)

1 今回の支援活動へ参加した動機

 7月初旬のことですが、神奈川県立高津養護学校の今泉先生たちが企画していた「宮城・障害児者支援ボランティア募集の記事」を海老名災害ボランティアネットワークのメーリングリストで見ました。私は、数ヶ月前から、海老名市社会福祉協議会の個人ボランティアとして、海老名市の障害者団体のスポーツ大会などの支援をしていたこと、私の息子が愛知県の聾学校で3年間ほど教員をしていたこと、退職前は福祉関係の調査や計画策定を業務としてやっていたことなどがあり、災害時における障害者支援について強い関心を持っていました。この記事を見てこの企画に参加することをメールで事務局(今泉先生)に伝えました。「高津災害ボランティアネットワーク」takatsu-saigai-volunet@goolegroups.comの主催で行われた説明会(7月20日)に参加しました。説明会は、高津養護学校の教室で開催され、養護学校の先生たちだけでなく、地域の方も参加していました。

2 宮城・障害児者支援ボランティア活動の企画内容


 高津災害ボランティアネットワークは、川崎市の等々力アリーナに設置された避難所の支援に数百名の市民が集まったことを契機として、その後、高津養護学校の今泉先生たちを中心に結成され、被災地にボランティアバスを2便出したそうです。

 今回の企画は、今泉先生が宮城県の障害者団体や宮城県教育委員会に連絡し、宿泊拠点となる福祉施設や支援活動をする障害者施設を紹介してもらうことにより実現したものです。企画のポイントは、次の点にあります。

①宮城県内で開催される障害者スポーツ大会の支援ボランティア活動に参加する(728日の七ヶ宿町、731日の山元町、810日の気仙沼市、822日の岩沼市。

②スポーツ大会の日程の前後に障害者デイサービス施設(白石市、名取市、利府町)で、障害児者の見守り等のボランティア活動に参加する。


③宮城県南部の被災地(山元町、亘理町、名取市など)を視察する。

④白石市にある「授産施設白石あけぼの園」を宿泊場所として利用させて頂くことができる。


⑤宿泊場所の白石市までは参加者がそれぞれの交通手段を使って行き、現地での移動の自動車は事務局(今泉先生)が手配している。

3 白石蔵王駅に到着、海老名市と交流してきた白石市の小学生たちと出会う

 海老名市を午後に発ち、東北新幹線の白石蔵王駅に午後5時頃、到着しました。駅を降りると、6名の小学生と付き添いの先生、それに出迎えに来た親や先生たちが集まってミーティングを開催していました。横で話を聴いていると、何という偶然か、私の家から3分のところにある「海老名市立東柏ヶ谷小学校」と交流して帰ってきたところだったのです。私の息子が海老名市立東柏ヶ谷小学校の5年生の頃、私がPTA会長をやった小学校でした。

 海老名市と姉妹都市提携をしている白石市は姉妹都市提携をしています。東日本大震災の後、こうした交流が続けられていたことを知って感動しました。

4「白石あけぼの園」に宿泊(730日夜)

 

白石蔵王駅に迎えにきてくれた今泉先生と一緒に車に乗り、近くのスーパー銭湯で風呂に入り夕食を済ませて、「白石あけぼの園」に着きました。白石あけぼの園は、東北本線白石駅から車で20分くらいの山の斜面に立地しており、緑豊かな環境の中にあります。

 同じ敷地内に、白石陽光園と白石寿光園の建物があります。これら三つの園は、社会福祉法人白石陽光園が運営する障害者・高齢者のための施設です。

 白石陽光園は更生施設(利用定員50名、入所者有り)、あけぼの園は授産施設(利用定員50名、ショートステイ可能)です。

白石駅の近くで地域生活支援センター「ポレポレ」を運営しています。白石あけぼの園の「めん工房」ではラーメンを販売しており(1パック3食入り480円)、白石陽光園の「はな工房」では鉢植えの花を売っています。また、社会福祉法人白石陽光園(info@shiroishiyokoen.or.jp)では、県南障害者就業・生活支援センター「コノコノ」、県南生活サポートセンター「アサンテ」など宮城県南部で幅広く社会福祉事業を展開しています。この白石あけぼの園で、730日夜から82日朝まで、宿泊(参加者負担なし)と食事(有料、低額)を提供していただきました。とても感謝しています。

5 山元支援学校での障害者スポーツ大会に参加(731日)


 731日の朝、地域生活支援センター「ポレポレ」に立ち寄り、職員と一緒に車で亘理郡山元町にある山元支援学校のグラウンドに駐車し、体育館に行きました。

① 宮城県立山元支援学校

宮城県立山元支援学校(http://yamayou.myswan.ne.jp)は、「隣接する独立行政法人・国立病院機構・宮城病院に入院または通院の病・虚弱の児童生徒と、亘理町、山元町に居住する知的障害のある児童生徒が学ぶ障害併置の学校です。」「障害が重いなどの理由により通学が困難な児童生徒には、学校から教員を派遣して指導に当たる『訪問教育』も行っています。」

② 「手をつなごう みやぎ夏祭りイベント」開催

 山元支援学校体育館で開催されたスポーツ大会は、宮城県障害者スポーツ協会が主催する「手をつなごう みやぎ夏祭りイベント」です。私たちが会場の体育館に入ったときは、既に様々な団体が会場設営などの準備に入っていました。930分過ぎに、支援ボランティア全員のミーティングが行われました。私たち(4名)は「ポレポレ」の一員として参加したのですが、リーダーの方から「神奈川県から参加したボ

ランティア」として紹介を受けました。リーダーから、本日の業務内容として「遊具で遊ぶ児童達の遊び相手及びサポート業務です!児童の安全確保(怪我防止)、遊具の保全管理等をお願いします」との説明があり、体育館内の遊具の配置図が手渡されました。また、「遊んでいる児童に対し、必ず誰かしらがサポートについているよう(児童が1人であそんでいることがないよう)、お互いに声を掛け合ったり周囲に目を配ってください」との注意がありました。

③ 学生ボランティアと一般ボランティアの役割分担


 宮城県内の大学生のボランティアが20名前後参加していました。学生ボランティアは「原則として来場した児童1人(1組)に対し、1人が貼り付き(1対1)遊び相手になってください」と説明されました。私たちも含めて一般ボランティアと「指導協」(?)も合わせて20名前後参加していました。「指導協及びボランティアの皆さんは、原則として設置系遊具に貼り付き、児童がその遊具で遊ぶための保全管理を行って下さい。」と説明されました。

④ 「遊び教室」の開幕、あちこちで歓声が聞こえる、楽しい時間でした

 遊具の担当者をリーダーが特に決めなくとも、各人が回りを見て、手薄なところへ誰かが行くという形で、自然に役割分担が行われていました。(私がこれまで参加した被災地での瓦礫撤去や泥だし作業で、自然な作業分担を進めた作業責任者もあり、逆に詳細なことまでボランティアに指示しないと安心できない作業責任者がいたことを思い出しました。)

10時過ぎには、障害児とその家族が会場に入ってきました。最初は少なかったのですが、次第に多くなり、障害児とその家族、ボランティアが一緒になって遊具で遊びました。私も輪投げ、デスクゴルフ、ミニボーリング、フラフープ(50年ぶりにやった!出来た!)などでの役割分担を果たすとともに、自分自身が楽しみました。


 12時頃会場の片付け作業、最後のミーティングとなりました。主催者からボランティアに御礼を言われましたが、こちらこそと御礼を返しました(相互交流)。

6 宮城県南部の被災地を視察(731日午後)、亘理町の住民グループと交流

 午後から山元支援学校の体育館では音楽イベントが行われましたが、私達は車で宮城県南部の沿岸(山元町、亘理町、岩沼市、名取市)を視察することにしました。

① 宮城県亘理郡山元町、常磐線坂元駅付近

 第震災から4ヶ月経過したが、常磐線復旧の目途は立っているのだろうか?

坂元駅前の復興の目途は立っているのだろうか?

[坂元駅のプラットホーム跡

[錆びついた常磐線の線路








[壊れた駅舎だけが残る坂元駅] 

      

 [1軒の人家も見えない坂元駅前] 

② 亘理町、「亘理いちごっこ」の活動

 

亘理町の被災地を見てから、NPO「亘理いちごっこ」が運営しているコミュニティ・カフェ・レストランへいきました。(http://watari.ichigokko@blogspot.com

 ここを紹介してくれたのは、高津養護学校の教員をしていた女性です。結婚で移住し、亘理町にある学校に採用されて「いちごっこ」の女性たちと知り合ったそうです。その方の紹介で、いちごっこの代表である馬場照子さんに会いました。

 馬場さんのお宅は、浜からは距離があったために被害はさほどのものではなく、地元の復興のために何かしなければと考えて、炊き出しの手伝いや避難所に手作りの料理やお菓子を運んだり、ボランティアのテント村にお味噌汁やスープの差し入れをやっていたそうです。そうした中で、避難所での食事やボランティアの食事に新鮮なものがないことに気づき、大きく被災した町民とそれ程ではない町民の交流、町民とボランティアの交流の場として、コミュニティ・カフェ・レストランを開設しました。被災者には無料で、一般の人には500円程度の支援費を払ってもらって、新鮮な食材がある料理を提供しています。コミュニティ・カフェ・レストランを開設する場所は町行政と交渉して、当初は町の蚕業会館を借りて開始し、今は地主さんの協力を得て、この土地を貸してもらっているそうです。NPO法人の申請も行い、最近、NPO法人の認可を受けたようです。また、馬場照子さんには5人の子どもがあり、神奈川県の大学に通っている娘さんがいると話していました。

 馬場さんは、被災地での住民間の交流、住民とボランティアの交流を推進すること(「循環構造」)を強調していました。また、私が「かながわ避難者見守り隊」のボランティアとして、神奈川県の非常勤職員と一緒に神奈川県内に避難してきた方の家庭を訪問し、情報提供・傾聴・相談・連絡という被災者支援活動をしていることを話すと興味を示し、自分達もそうした訪問・相談活動を町行政と交渉して進めたいと話していました。

7「さわおとの森」(利府町)で障害者デイサービスを手伝う(81日)

 8月1日は、白石市のあけぼの園から、今泉さんの運転する車で、仙台市を通過し宮城郡利府町にあるNPO「さわおとの森」に行きました。ここは、かなりの交通量のある道路から坂道を登ったところに立地した施設でした。

ここは、障害児や発達に遅れのある児童に対するデイサービス、比較的障害の重い18歳以上の方に対してデイサービスを提供すること(生活介護)、ショートステイ(短期入所)、また、ホームヘルプサービス、行動支援、重度訪問介護、移動支援を推進しています。その他、利府市の市町村事業(「日中一時支援事業」など)も推進しているそうです。(はローワークで募集をかけているが、職員の不足に悩んでいる様子が感じられました。)

 私は、施設の責任者から説明を受けた後、デイサービス担当の職員のところへ案内され、職員を補佐して活動をしてくださいという指示を受けました。10時前後には、家族に送られてデイサービス利用者が到着しました。午前中は、障害者と一緒に、近くの公園に散歩に行きました。私は、坂道でバランスに注意しながら車椅子を押し、障害者と自然な感じで話ができるように努めました。初対面でもあり、言葉がよく聴き取れないこともあり、コミュニケーションが難しいものだということを実感しました。

昼休みは、職員や他のボランティアと一緒に交代で食事をとりながら、被災の状況や障害者施策などについて話し合いました。午後は、何人かの障害者とカルタなどのゲームや紙漉きの準備、「楽天」チームを取り入れた音楽入りの体操などを皆で行いました。夕方になると、施設の職員がマイクロバス等でデイサービス利用者を送っていきました。

 

8 みのり会「るばーと」(名取市)で障害者デイサービスを手伝う(82日)

① 津波で全壊した障害者施設「るばーと」

 大震災による津波で、沿岸にあった社会福祉法人みのり会が運営する通所更生施設「るばーと」と地域活動センター「らるご」(同一の建物)は壊滅的な被害を受けました。

 3月11日は、施設でイベントが開催されていましたが、津波情報を聴き、駐車していた大型バスで避難し、間一髪で難を免れました。しかし、施設利用者を車で迎えに来た家族が、津波に巻き込まれて亡くなったという悲しい話を聴きました。

この施設は既に片付けは終わっていましたが、再使用できる状態ではなく、移転・再開を余儀なくされました。片付けが終わった後、金目の物が盗まれるという被害にもあったそうです。

 建物の周辺には夏草が生い茂り、この施設だけでなく地域全体が何時復旧・復興できるのか、全く目途が立たない状況であると感じました。

② 仮施設で事業を再開した通所更生施設「るばーと」

 社会福祉法人みのり会は、3・11大震災前は、名取市内で、通所更生施設「るばーと」、地域活動センター「らるご」、相談支援事業「窓」、日中一時支援事業「ゆらり」、名取市みのり園(就労継続支援事業を市から受託)などの福祉事業を展開していました。大震災で、名取市みのり園を除く4つの施設が壊滅的打撃を受け閉鎖されていました。

 通所更生施設「るばーと」は、震災から1ヶ月もしない4月1日より、みのり園に近い場所に仮施設で事業を再開しました。6月1日からは名取市文化会館に近い場所に移転して仮施設で事業を継続しています(右上の写真)。こうした仮設施設を借りるときにも、地元の人の支援があり、また、各地の障害者施設の経営者の支援があったので、事業が再開できたと話してくれました。特に、神奈川県の施設関係者がボランティアで来てくれるなど、感謝しているというお話を聴きました。

 私は、施設の責任者から説明を受け、比較的軽度の障害者のデイサービスを手伝いました。午前中に、障害者及び職員の方と一緒にマイクロバスで大型ショッピングセンターへ行きました。集団的な行動が出来ない障害を持つ方が1名いましたので、私はその方を絶えず見守る役割となりました。障害を持つ方にはそれぞれ独特な行動様式があり、それを理解して見守ることが大切だということを実感しました。昼頃、無事に施設へ戻ることが出来て安心しました。さまざまなことに気を配りながら障害者の見守り活動をしている職員は素晴らしいと感じました。

9 今回の障害児者支援(交流)活動についての感想

① 関係者の必死の努力で「福祉事業は復興しつつある」と感じた

 活動を再開できた福祉施設を訪問し、活動に参加させてもらったので、宮城県内の福祉事業は復興しつつあると感じました。しかし、事業を再開できないでいる福祉施設やサービス事業者がどれくらいいるか、それで困っている障害者や高齢者がどれくらいいるかについては、まず行政が調査する必要があると感じました。

② 「支援」というよりは「交流」という言葉が相応しい活動であった

 今回の障害者施設や障害者スポーツ大会への支援は、瓦礫撤去や泥だしという建設業的な活動(ハード)とは異なり、障害者と支援者の交流、支援者相互の交流という内容(ソフト)であった。「支援」(被災者・被災地のニーズに即して何か役に立つことをしているという意味)というより、相互の「交流」という言葉が相応しいと感じました。別な言い方をすれば、本当の支援とは相互の交流だと思いました(亘理町の馬場さんのいう循環構造)。

③ この経験を自分の地域へ持ち帰り、日常の福祉活動の前進に生かす

 障害児者支援として展開された今回の活動を私の住む海老名市に持ち帰り、日常的な福祉活動に生かすこと、また、そうした活動をしている海老名市の人たちと一緒に、再び被災地の人たちと交流することだと思っています。

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